提言58: 子どもの心を育てるために

〜 「みんなの子どもを、みんなで育てる」 という側面から考える 〜 (2013/4/11 記)  

 子どもの心を育てる“育て手”とは誰であろうか。それが“すべての大人である”という大前提を忘れてはなるまい。
 子どもたちは意識をする、しないにかかわらず、周囲の大人の言動(心の動きも含めて)の影響を受けつつ自分の心を育てていく。親(家庭)、教師(学校)、近隣の大人(地域)、そして一期一会の大人、それぞれが、それぞれの機能や役割の特質を生かして、子どもたちの心をよりよく育てていくようにしたいものである。
 そこで、2つの事例、「お風呂屋さんで」「電車の中で 」に基づいて、「みんなの子どもを、みんなで育てる」という強い意思を、大人一人一人が共有することによって、「子どもの心は豊かに育つ」はずである。このことにつて見解を述べてみたい。

 1.【事例1】と その解説
 (1-1)事例1:お風呂屋さんで
 昭和10年代、小学生(当時は国民学校生)の私の家は、東京の南部、その気になれば居ながらにして“向こう三軒両隣”の様子が手に取るように分かってしまうような小さな借家の集まりにあった。そしてまた、この一郭は、“思いやり”や“おせっかい”がいきかう人情があふれた町でもあった。 
 小さな借家には内風呂などはない。そこでみんなが「銭湯(風呂屋)」にいくわけである。我々小学校低学年の子どもたちは、おおむね夕方早めに銭湯に行く。この時間帯、大人はあまりいないのであるが、必ずと言っていいほど、いつもきまったこわそうなおじさんが一人湯ぶねに入っているのである。
 そのおじさんの背中には、一面に極彩色の“般若(恐ろしい顔つきをした鬼女)の彫りもの”があった。(その頃は、こうした“彫りもの”をした人がよくいた)この彫りものはおじさんの自慢の種である。だから、背中が風呂場に入ってくる人によく見えるように、後ろ向きに湯ぶねにつかっている。なのに、不思議なことにこちらの様子が分かるのである。
 私が脱衣場で着ているものを脱ぎ、境のガラス戸をあけて洗い場に入る。すると、湯ぶねに入っている友達から声がかかる。私は「よお!」という感じで走り出す。とたん に、おじさんの怒鳴り声が響く……
 「こらあ!洗い場で走るヤツがあるか!転んだら大ケガだぞ!」私はあわてて止まり、そっとすり足で湯ぶねに入ろうとすると、「まて!股ぐらを洗ってから入れ!」、「手拭いを湯ぶねにいれるな!」と、“二の矢”、“三の矢”がとんでくる……。
 洗い場で友達と並んで体を洗っていると、「おい、二番目のボウズ、シャボンのつけすぎだぞ!」考えてみるまでもなく、この調子で指導されている中で、私たちは間違いなく「入浴のマナー」を身に付け、公衆道徳を学んでいたわけである。“般若のおじさん”の長湯(要するに、お風呂場にいる時間が長いこと)は有名であったが、もしかすると、湯が好きだとか、般若の彫りもののデモストレーションとかもさることながら、子どもたちの相手をするための長湯だったのではなかろうか。 

 (1-2)「例1:お風呂屋さんで」の解説
 こうした、子どもたちへの世話が大好きで、ちょつぴり照れ屋だったりする“町内のこわいおじさん(所によってはおばさん)”は、かつては日本全国津々浦々に存在した。
 そしてまさに、地域の教育力の担い手として、子どもたちに小さな社会人としてのあるべき姿や行動の様式を教えてくれていたのである。もちろん、親たちも、学校もその存在を認め、感謝し、折に触れて連携もしていた。
 現今はどうであろうか。こうしたおじさん(おばさん)の行為は、「なんの権限があって他人の子にそんなことをするの!」「うちの子に余計なおせっかいをしないでください!」などと白眼視されてしまう可能性が多い。そういえば、「人様にご迷惑をかけるんじやないよ」が、外へ遊びに行く我が子にかける親の言葉の第一であったことが過去になって久しい。これらは地域社会における“かかわり”の喪失の象徴とも言えよう。
 実は、この大人社会の“かかわり”の希薄化、喪失現象が、子どもたちの心の成長に大きな影を落としている。加えて、テレビ、パソコン、ケ−タイなど電子文化が子どもたちの“かかわり”の在り方に制約をもたらしている。
 とはいえ、いたずらに過去を懐かしむことも、単純に今に絶望することも意味はない。子どもの心を育てるために現今の社会構造、生活様式の中で、大人同士、大人と子どもの “かかわり”をどう工夫し、どう豊かにしていくかが課題なのであり、そのために「みんなの子どもをみんなで育てる」という意識が大切になってくるわけである。
 ところで、“町内のこわいおじさん(おばさん)”はいなくなってしまったのだろうか。確かに地域社会の構造や環境、人々の生活の形態の変化は、かつてのような“おじさん(おばさん)”の存在を困難にしてしまったが、その精神はなくなろうはずはないし、また、なくしてはならない。例えば、それぞれの親が「自分も町内のこわいおじさん(おばさん)である」という考え方のもとに、「自分の子どもが先生や近所の人に注意されたり、叱られたりしたら、感謝する心をもとう」「お互い同士、相手の子を叱れるような近所づきあいを大切にしよう」といった自覚や、育て手としての使命感をもつことが望まれる。

 2.【事例2】と その解説
 (2-1)事例2:電車の中で
  以前、東京の山手線の外回り電車の中で出会った出来事である。
 車内は、座席が全部ふさがっており、ところどころにつり革につかまって立っている 人がいるといった状況であった。私は座席に座っていたが、電車が五反田駅を出発した直後、ふと、反対側の席に並んで座っている小学校3、4年生ぐらいの女子と母親の二人連れの様子が気になった。
 二人は小声で何か話し合っていたが、女の子がそっと席を立って、たった今五反田駅 から乗り込み、斜め前でつり革につかまっている恰幅のよい熟年の紳士に、「どうぞ」と声をかけた。席を譲ろうというわけである。
 「いやあ、わしは……」その紳士は50代半ばと見受けられ、確かに若くはないが“お年寄り”というにはほど遠く、おそらく席を譲られたことにびっくりしたのであろう。あわてて何か言いかけた。 
 きっと「いいですよ」と断るだろう。もしかすると「わしを年寄り扱いするな!」なんて怒鳴るのではないか。見ていた私は一瞬そう思った。まわりの人たちもそんな雰囲気だった。 ところがその紳士は、「ありがとう、お嬢さん。」と言い直して、にこにこしながら譲られた席に座った。恰幅のよい紳士のために、同じシートに座っている人はみんな腰を浮かせて席をつめたが、だれもがにこにこしている。
  「すてきなお嬢さんですな。」と紳士に声をかけられ、母親もほっとした表情である。そうこうしているうちに、電車は次の目黒駅に滑り込んだ。と、どうだろう、紳士はやおら席を立って、「わしはここで降ります。お嬢さんありがとう。うれしかったよ。」と、女の子の頭をなでて、にこにこしながら電車を降りていった。
 五反田駅と目黒駅の一駅間、ほんの1〜2分間の出来事であったが、女の子の相手を思う温かい気持ちと、それをこれまた温かくしっかりと受け止めた紳士のすばらしい心遣いと……、私は、まことに充実した時と場に遭遇できた嬉しさでいっぱいであった。

 (2-2)「事例2:電車の中で」の解説
 紳士は、席を譲られるような年齢ではない。おまけに、すぐ到着する次の駅で降りるのである。むしろ“有り難迷惑”的な出来事と言えよう。それに、「次の駅で降りますから」と断っても、何ら不自然ではないであろう。なのに、紳士は、女の子の“相手を思う気持ち”を大切にしなければならないという思いを先行させた。女の子は「席を譲ってよかった」「うれしいな」「これからも“親切”を大事にしよう」と、豊かな思いに浸るに違いないし、これからの心の成長の糧となることも確かである。
 まさに“一期一会”の出会いである。であるからこそ、女の子の心に刻まれる思いも強いはずである。「みんなの子どもを、みんなで育てる」ということの原点に、この紳士のような心と行為があると言えよう。

 3.本提言の ねらい
 2つの事例は、校長、副校長、教師等によって、受け止め方は必ずしも同じとは言えない。しかし、校長や副校長であれば、校内研修の場を設定して、「事例1と事例2の解説」に基づいた研修等を設けてはどうだろうか。「みんなの子どもを、みんなで育てる」ということを、教師が共有することによって、子どもへの的確な指導ができると考える。
 学級担任の教師は、「道徳」等の時間に、事例1:「お風呂屋さんで」、事例2:「電車の中で」の内容を活用した授業を行ってほしいと考える。そして、子ども一人一人の感じ方や考え方を十分に話し合い、自分自身を見つめ直した後に、自分ならどのように行動するか具体的に捉えていくようにすることが、子どもの心に「豊かさと温かさ」を育んでいけるのではないかと考える。
以 上   

Back to Contents